グループびじょん上映会「こんな時代があった…そして、こんな映像があった 闘争の時代を共にした映像作家たちとその後」

2013年11月24日 「死者よ来たりて我が退路を断て」(記録映画アーカイブ・プロジェクト)

東京大学(会場)

東京大学(会場)

2013年11月24日(日)に開かれた、東京大学の記録映画アーカイブ・プロジェクト 第11回ワークショップで、「死者よ来たりて我が退路を断て」(作品紹介)が取り上げられました。
(記録映画アーカイブ・プロジェクトについては、こちらをご覧ください。記録映画アーカイブ・プロジェクトサイト

「戦後史の切断面(2) 1968・映像のコミューン」というテーマの中で上映されました。

上映後、「制作者が語る」というトークセッションでは、元岩波映画の井坂能行さんに加え グループびじょんの北村隆子(「死者よ…」演出)、水野征樹(「死者よ…」撮影)が演壇に立ち、当時の制作状況などを話しました。

ここでは北村隆子と水野征樹の話を採録します。

この映画は、映画労働者という立場を踏まえながら,新しい映画づくりへの模索の中から生まれた。
北村隆子(演出)

トークセッションで話をする北村隆子

トークセッションで話をする北村隆子

1. 当時の社会状況

皆さんこんにちは。「死者よ来たりて我が退路を断て」の演出を担当した北村隆子です。

今日はこの映画が、どのような状況の中で、どのような経過を経て生まれてきたのかを、少しお話ししたいと思います。

かつて、目黒に「日本映画新社」という短篇映画とニュース映画を作っている会社がありました。社員たちは日映労組をつくり、フリーの演出助手達は契約者労組を作って、両者は共斗していました。日映労組は「短篇連合」という連合体に入っていました。このころは、学生運動と同じように労働組合運動も盛んだったのです。

2. びじょんの結成

1967年頃から日映労組内の有志と契約者労組の有志が、今までの賃上げ斗争にあきたらなくなり、「グループびじょん」という集団をつくりました。

「グループびじょん」は、作品の合評会をひらいたり、機関誌を発行したりして、新しい映画制作を求めてゆくようになりました。同時に三里塚斗争などのデモにも参加し、先程井坂さんの話にもあった「現認報告書」にも制作者として参加しました。そして学園斗争がますます盛んになってゆく中で、自分たちの主張を自主映画で表現したいと思うようになったのです。1968年の4月、「グループびじょん」は目黒の権之助坂をおりたところに小さな一軒家を借り、会社の仕事が終ると、ここに集まって、自主映画を作る為の討論を深夜まで続けるようになりました。

この「グループびじょん」は、志を同じくする者なら誰でも参加出来るゆるやかな団体でした。このアジトに、学生運動は出来ないが、何か時代に切り込む事がしたいと考える学生、若いカメラマン、写真家などが大勢集まってきました。参加者たちは自分の出来る範囲でカンパを行い、運動資金を集めました。(300万くらいの資金があつまりました。)そして68年11月、自主映画「死者よ来たりて我が退路を断て」の制作が決定されました。

シナリオは、全員参加の徹夜の討論の中から自然発生的に斗争をとろうという方向にまとまって行きました。では、何をとろうか、という段階で、学園斗争は日大芸斗委のバリケード内をとり、一方では労働者の斗いをとろうという事になりました。

3. なぜ日大芸斗委か

なぜ芸斗委だったかというと、まず日大の斗いが誰にでもわかる正義の斗いだったという事があげられます。当時、日大では、理事たちの使途不明金問題をめぐって、ほとんどの学部に斗争委員会がつくられ、5月には「日大全学共斗会議」が結成されていました。これまで全く学生運動とかかわりのなかった一般学生が、学校側のあまりの不正と不誠実な態度に怒ってたち上がったのです。

日大斗争のもう一つの特徴は、どの学部でもたびたび右翼の学生の襲撃を受けているという点です。

江古田にある芸術学部でも、6月に芸斗委がスト突入を宣言し、バリケードを築きますが、11月に大勢の右翼の襲撃をうけて、バリケード内はめちゃめちゃに破壊されます。この時は他の学部の応援もあってバリケードを死守し、右翼の何人かを捕虜にします。映画の中で右翼の話が出てくるのは、その時のことだと思われます。

芸斗委を選んだもう一つの理由は、「グループびじょん」の中に彼等の先輩が何人かおり、学生たちの斗いが身近に感じられたことがあります。当時江古田にあった芸斗委のバリケードの中は、実にオープンで明るいものでした。芸術学部出身の多くの映画人、文化人、ジャーナリストたちが自由に出入りし、応援演説をしたり、写真をとったり、映画をとったりしていました。そして私達「グループびじょん」も、何の制約もなくすんなりと、撮影が許されたのです

4. 撮影開始

私達の撮影隊は、68年の11月中旬から断続して約3ヶ月間、バリケードに入りました。闘いの日々を送る学生達とかかわる中で、彼等の純粋さ、ナイーブさにうたれ、斗いの日録を追うのではなくて、彼等の心に迫ろうというテーマがはっきりしてきました。撮影部も録音部もそして演出部も、目黒のアジトで徹夜の打ち合わせをしては、バリケードにもどり、独自に撮影、録音を行いました。映画の中で画面と音がシンクロしていないのはそのせいです。撮影は69年2月の機動隊突入まで続きました。

5. 東京書院の斗い

最後に、映画の後半に出てくる東京書院の斗いについて、少しふれたいと思います。 映画の中では、小さな扱いになってしまいましたが、この斗いは労働者である私たちにとってバリケードの中の学生たちと同じくらい大切なものでした。当時神田にあった出版社「東京書院」で、ある日突然5人の労働者が解雇されます。組合を結成したのがいけないというのです。これに納得出来ない労働者たちは職場にこもります。そこに機動隊がなだれ込んできて男性三人が逮捕されます。残されたのは女性二人だけ。支援団体に助けられながら、この二人は逮捕された仲間のために東京拘置所(注)へのさし入れをつづけ、同時に自分の行くすえを考えて悩み苦しみます。この事件も、ふつうの労働者が突然斗いの中にまきこまれたという点で日大斗争と共通するものがありました。当然この斗いもつぶされてゆくのですが、このような名もない斗いが当時はいくつもあったのです。

その後、映画は仕上げの段階に入りますが、学生の斗いと労働者の斗いをつなげる事はとても難しく、結局並列的にならべる事になってしまいました。

映画の完成後は、自主上映活動を続けながら「グループびじょん」は徐々に解体してゆきます。びじょんの仲間たちはその後も短篇映画、テレビのドキュメンタリー、自主映画などの分野で制作活動をつづけ、今に至っています。

私の報告はこれで終わりますが、江古田に機動隊が突入した時バリケードにいたカメラマンの水野征樹さんに、少しだけお話して頂きます。水野さんどうぞ。

(注)池袋にあった東京拘置所は小菅に移転 現在はサンシャインシティになっている。

このページの上へ

寒空に放水をあびて震えていた姿、女子学生が懸命に石を集めていた姿が忘れられない……
水野征樹(カメラマン)

トークセッションで話をする水野征樹

トークセッションで話をする水野征樹

今日は。こんな席で話すのは慣れていないので読み上げます。 「死者よ来たりて我退路を断て」、この作品を担当した撮影の水野です。もう半世紀近い昔のことで当時24才だった僕の記憶は鮮明ではありません。それ迄撮影助手だった僕には始めて責任を負うデビュー作品でした。当時はフリーランサー、今で言うフリーターでした。20才で映画の世界に飛び込み、45年間、社員になる事なく一貫してフリーランサーのまま、リタイヤしました。その間に仕事した会社は百社近くになるだろうかと思っています。

当時はゲバ棒、投石が機動隊、そして右翼との斗争手段でした。催涙弾、放水車、タテ…、圧倒的な装備にケチラされながら何度も何度も抵抗しました。寒空に放水に全身ズブ濡れにになりながらフルエテいた姿、女子学生が懸命に石を集めている姿が忘れられません。そして斗争スケジュールの暇を見つけては逮捕者への差入支援、バイトを見つけて生活費、そして闘争カンパそれぞれが分担していました。年の瀬、バリケードの中庭で何処から手配したのか、大きなウス、キネ。厳しい日々が続く中でのモチつき大会で見た学生達の笑いに満ち溢れた表情は僕から見れば真に青春讃歌でした。江古田の校舎の屋上から見下ろした時、狭い道路一本隔てた街並とバリケードの中とどちらが日常で、どちらが非日常か判らないなーと思ったりしました。そして年を越し、安田講堂の斗い、日大バリケード封鎖解除と続き、斗争は終焉に向っていきます。安田講堂・列品館も芸術斗争委員会は連帯する為に何度も赤門をクグリました。当時グループびじょんにも東大生がいて、彼はその際逮捕されてしまいました。

僕にとって当時怒りをもっていたのは機動隊でも右翼でもなくヘルメットをかぶりカメラ、腕章を巻き録音機、そしてメモ帳を持ち取材する同業者でした。彼等は学生とは決して一緒に行動せず、安全な場所つまり機動隊の後ろからの取材でした。あの時程、腕章を、ヘルメットを憎々しげに思った事はありません。先程社員になった経験はないと申上げましたが、その時決して社員になるまいと決意したのです。学生からは私服刑事、警察からは学生レポに間違えられ大変でした。ヘルメットをかぶらなかった僕の防具はカメラだけでした。何度も学生と機動隊の衝突の現場に立会うと、不思議にエアーポケットの様な場所がある事が判りました。両者の中間が安全だと知り、そんな一見危険な位置で撮影してました。今考えると良くケガしなかったなと思います。永いカメラマン人生で死に直面した事も何回か有りました。知人の2人が戦場で死んでいます。

日大芸術学部のバリケード解除当日僕はバリケードにいました。江古田バリケードを撮影するに際して自分で心に決めていた事は、出来るだけ客観的視点を捨てようとした事です。具体的には街頭斗争以外にバリケード内部しか撮影しないと言う事です。

あの日、つまり機動隊がバリケードを破壊した日、何故か早朝5時半だったと思いますが、江古田の校舎の壁に立看板でアジテーションを書く学生を撮りたくて、一緒にバリケードを抜けて道路に出ました。学生が一生懸命自分達の主張を一般市民に向って書き留めている姿を撮影していました。学生は3名、撮影隊は僕一人です。撮影する僕の側を社旗をつけたTV局の報道車が通り過ぎました。「アレーおかしいなーこんな時間に・・・」学生の一人に「ちょっとあの車をつけていってくれ」と頼みました。2・3分後、立看板書きを撮影していたら学生が息せき切って帰って来ました。「機動隊だ!」それからは余り詳しく覚えていませんがバリケードに戻り、廊下を走り廻り、階段を懸け昇り、眠っている学生諸君をたたき起こして廻りました。何処の誰かも分からない僕達撮影隊を受入れて呉れた学生達に一宿一飯の義理を果たす積もりだった事だけは判っています。

叫び廻って、少し冷静になり、サー撮影しようと思ってバリ入口に向った所で機動隊に検挙されました。今でも覚えています。「オー阿呆が自分から出て来たわ」でした。僕が検挙されたのは4人目、立て看板書きの三人がもう検挙されていました。ポケットにあったメモ帳をひきちぎって、噛みこんだ記憶が有ります。そして、フィルムをひそかにカメラから出し露光させました。学生個人の犯罪証明に利用されるのを恐れたからです。そんな訳でこの映画に封鎖解除のカットが撮っていないのです。

それから十数年後、バリケードにいた学生が僕と一緒に仕事していた時、ポツリと話した台詞を今でも鮮明に思い出せます。「あのバリケード斗争は勉強の場だった。俺の青春だった」と! 赤門を潜ったのは、安田講堂陥落以来、45年振り。「あの頃は若かった、あの頃は元気だった」と、懐しみつつ報告を終えたいと想います。

このページの上へ

グループびじょんに関するお問い合せは,bijon<あっと>i-brains.jpまでお願いいたします。
(「<あっと>」は「@」(アットマーク)に置き換えてください)